オロシマチク
オロシマチクは、イネ科メダケ属に分類されているササ類で、日本のイネ科タケ亜科の中ではいちばん小さいとされています。 よく刈り込みにも耐えますので、地被植物などとして利用されています(下の写真)。
名前のオロシマは、タケ博士として知られている室井綽博士によると、嘉永年間に江戸巣鴨の植木屋長太郎が筑前国於呂島から持ち帰って広めたといわれている、ということです。 しかし地図で探してみましたが、福岡県に小呂島はありましたが、於呂島は見つけることはできませんでした。
小呂島と於呂島は同一の島だとのコメントをいただき、歴史的な経緯も教えていただきました。 詳しくはコメント欄を見てください。(2016.7.28.追記)
そのオロシマチクの花が咲いていました。 上の写真で、黄色く垂れ下がっているのはオシベの葯です。
上の花では、ちょうどメシベの柱頭が見えています。 メダケ属の花では、このようにオシベは3本、メシベの柱頭も3本です。
タケやササは花が咲くと枯れるという話をよく聞きます。 たしかに種子生産に多くのエネルギーを消費しますから、その株は弱るのでしょう。 しかし特にササの場合は、花はよく見るのですが、地下茎でつながっている全体が枯れてしまうのかどうか、継続的に観察できる場所でササの花が咲いたことが無いので確認できていません。
すくなくとも、植栽されている場所では、たくさんの株を寄せて植えていて、花が咲いているのはその一部ですから、全体が枯れてしまうことは無いでしょう。
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コメント
はじめまして。福岡市の西区に在住している中学校教員です。小呂島に3年前まで赴任していました。オロシマチクのことを書いてくださっていますので、コメント差し上げます。
まず、筑前於呂島とは小呂島のことで間違いありません。
江戸時代まで小呂島は於露島、於路島や大蛇島などの表記で書かれましたが、於呂島が一番一般的な表記です。学校周辺でも、於呂島竹かと思われる笹を発見し、専門家に送付しましたが、遺伝子検査をしないとはっきりしたことは言えないとのこと。
次に「嘉永年間に筑前於呂島に江戸巣鴨の花屋長太郎が筑前の殿様と来島し、珍しい笹をもちかえった」との伝説ですが、これについては島内で確認できませんでした。ただ、嘉永年間といえば、黒田藩の殿様は11代斉清が思い当たります。当時すでに次代に藩主の座は譲っていますが、若い時にシーボルトとも植物の標本のやり取りをしたほど植物の造詣に深く、野鳥が大好きだったとのこと。晩年、長太郎とともに小呂島に来た可能性はあります。
小呂島は野鳥の宝庫であり、今でもよくバードウォッチングの方がいらっしゃいます。
また、小呂島に「殿の山」という地名があり、目の神様と慕われる薬師堂のすぐ上にあります。斉清は眼病を患っており、藩主交代はほぼ失明状態に近かったためらしく、もしも斉清が小呂島に来島したなら、薬師堂に参ったことは十分考えられることであり、「殿の山」の地名につながった可能性があると思われます。
このように伝説を裏付ける状況証拠はあるのですが、直接的な証拠はまだ見つかっていません。今後の課題です。
投稿: 淤能碁呂太郎 | 2016年7月27日 (水) 09時55分
物事に歴史あり、ですね。
興味ある話をありがとうございました。
小呂島は野鳥の宝庫でもあるとのこと、春の渡りの時期にでも、機会があればぜひ行ってみたいものです。
投稿: そよかぜ | 2016年7月28日 (木) 13時34分