昨日(4日)のテレビのニュースでは、京都3大祭りの最初を飾る葵祭(15日:陰暦四月の中の酉の日)の斎王代が身を清める「御禊(ぎょけい)の儀」の様子を上賀茂神社から伝えていました。
葵祭は賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる「賀茂祭」に始まり、応仁の乱によって中断されますが、元禄七年(1694)に「葵祭」の名で復活します。
葵祭の名前の由来は、牛車、勅使・供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、葵(カモアオイ)の葉と桂の小枝で飾ったことからきており、家々にも葵を掛ける風習があるそうですが、このカモアオイとはフタバアオイのことなのです。
この祭になぜフタバアオイを使うのか、その由来は長い歴史の中でよく分からなくなっているようです(下の
)。 祭の復興に「葵の御紋」の徳川幕府の多大な援助があったからとも言われていますが、この「葵の御紋」の葵もフタバアオイの葉を図形化したものです。
このフタバアオイ、4月29日の金剛山でも花をつけていました(下の写真)。 名前のとおり、短い枝の先に、長い葉柄を持つ2枚の葉が対生し、この2葉の間に1つの花をつけます。
下の写真は薄暗い場所でフラッシュを使わずに撮影しましたので、そのあたりがきれいに撮れていませんが、よく見ていただくと理解していただけると思います。
花は3花被片が完全に反り返っていますので、注意して見ないと3花被片があることすら分かりません(下の写真)。
昨年の4月25日にカンアオイのことを記事にしました。 カンアオイは冬でも緑の、フタバアオイは冬には地上から姿を消す植物ですが、どちらもウマノスズクサ科の同じ属(Asarum属)に分類される近い仲間です。 なお、ゼニアオイ、タチアオイ、トロロアオイなどは、アオイ科の全く別の植物です。
Asarum属の花は特徴的なものが多く、メシベは花柱が分離していることが多いのですが(「カンアオイ」の花の断面の写真参照)、フタバアオイの場合は、例外的に花柱が柱状に合生しています(花の断面の写真はこちら)。
(「葵祭」雑感)
葵祭で使われるフタバアオイの量は相当なもので、2006年5月14日の朝日新聞の速報ニュースサイト(asahi.com)では、上賀茂神社が葵祭の「フタバアオイ」確保に向けての育成計画が報じられていました。 フタバアオイは、そんなにどこにでもたくさんある植物でもありませんし、簡単に急に増やせる植物でもありません。 そんな植物を使う葵祭はなぜ「葵」祭なのか、この記事を書いていて、いろんな疑問が湧いてきました。
まず、応仁の乱以前の賀茂祭にもフタバアオイは使われていたのでしょうか。 もしそうなら、フタバアオイの縁で徳川家が祭の復興に力を貸したというのも分かります。
でも、それならなおのこと、なぜ賀茂祭にフタバアオイを使ったのでしょうか。 また、徳川家はなぜフタバアオイを家紋に使ったのでしょうか。
そこに多くの人たちが忘れているフタバアオイの謎があるのかもしれません。 時間ができれば調べてみたいところです。
葵で飾るのが徳川家への感謝であるならば、明治維新を超えて葵が使われているのも興味あるところです。
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